横浜地方裁判所 昭和56年(ワ)2622号 判決 1988年11月25日
原告 吉原昭
<ほか一名>
右原告ら訴訟代理人弁護士 秋山泰雄
恵崎和則
被告 財団法人神奈川県警友会
右代表者理事 大山克己
右訴訟代理人弁護士 伊集院功
右訴訟復代理人弁護士 内藤潤
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告らに対し、それぞれ金一三〇九万九一〇五円及び各内金一一九〇万九一〇五円に対する昭和五六年一一月二六日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告らは、昭和五五年七月六日死亡した訴外吉原貴子(以下、「貴子」という。)の父及び母である。
(二) 被告は、警友総合病院(以下、「警友病院」という。)の経営を目的とする財団法人である。
2 本件診察経過及び貴子の死亡に至る経過
(一) 貴子は、昭和三五年一一月七日生まれの健康な女子であり、同五四年三月高等学校を卒業後東京レンタル株式会社に事務員として勤務していた。
(二) 貴子は、同五一年ころ慢性副鼻腔炎に罹患したことがあり、また、同五四年六月腎盂炎で治療を受け、更に同年一二月発熱し、溶蓮菌感染症、肝炎との診断により治療を受けたことがある。
(三) 貴子は、同五五年(以下月日のみの記載はすべて昭和五五年である。)二月一日肝機能の精密検査の目的で警友病院を受診し、被告との間で診療契約を結んだ。
右受診の際、同女は腹鳴、腹部不快感、頻尿、残尿感、排尿異常感、腰痛等を訴えたところ、検査の便宜のため入院を勧められた。
(四) 貴子は、三月四日から四月七日まで警友病院に入院した(以下、「第一次入院」という。)。
入院当初、同女は自覚症状として倦怠感を訴えていた。同病院のその時の診断は「ルポイド肝炎疑」であったが、同女に対してその旨の告知はなかった。
同女は、同病院耳鼻科において、三月一三日鼻腔の洗浄治療を、同月二七日鼻腔骨洗浄治療をそれぞれ受けたが、入院中時折倦怠感、息苦しさ、腹痛、不眠を訴えたほかは特に自覚症状がなかった。そのため同病院は同女の肝機能は正常に回復したものと判断して同女を退院させた。
(五) 貴子はその後も警友病院に通院を続けていたところ、五月一五日同病院から検査のため三日間程度の入院を指示されて同日再入院した(以下、「第二次入院」という。)。
同女は、再入院に至る間の自覚症状として、時折全身的倦怠感や右側腹部痛があり、寝汗をかくと訴えており、入院時には下腹部不快感、鼻腔閉塞感を訴えた。
翌日同病院は、同女に対し病室において肝生検術(以下、「本件肝生検術」という。)を行ったが、その結果に異常はないと診断した。
(六) しかし、貴子は、五月一七日ころから毎夕発熱し、全身疲労、右頸部リンパ節腫脹等を訴えていた。
同女は六月七、八日医師の指示で外泊し、九日帰院した。
その後同女は、右耳後部、左右側頸部、両腋窩、左足鼠径部の順に次第にリンパ線の腫脹が生じ、六月二一日ころには両顎下部において顎と首の境がなくなるほど腫脹が増大し、更に同月二五日ころからは昼間でも高熱、発汗が続く状態となった。
(七) 警友病院は、六月二四日同女に対し、右鼠径部リンパ節生検術(リンパ節切除による。以下、「本件リンパ節生検術」という。)を実施した。
七月三日その結果について、「悪性でなくて良かった。あとは熱が下がれば一、二週間で退院できる。」との説明がなされた。
(八) ところが、貴子は、七月四日から排尿がなくなり、鼻出血が続き、翌五日から下痢を起こし、同日から翌六日にかけてタール便があり、また、呼吸困難も訴えていたところ、同月六日午後三時五〇分ころ突然死亡した。
警友病院の診断では、同女の直接の死因は消化管出血であり、その原因は悪性リンパ腫疑であったが、それまで同病院から同女の生命の危険性や病名についての説明は一切なかった。
3 貴子の死因
(一) 貴子は、二月一日の警友病院受診以前から、非ホジキン瀰漫(びまん)性混合型悪性リンパ腫に罹患していた。そして右受診時の同女の病態は、既に肝への瀰漫性浸潤を伴う悪性リンパ腫の第四期にあった。
(二) 同女の直接死因は悪性リンパ腫末期にみられる多臓器障害症候群の急性増悪である。
4 被告の責任
(一)(1) 貴子については、リンパ節腫脹等の症状を仔細に診察すれば、五月一七日ころ既に悪性リンパ腫の特徴的所見が認められたのであるから、警友病院としてはそのころ複数部位のリンパ節生検を始め、悪性リンパ腫鑑別診断のために有効な諸検査を行うべきであり、右検査を行っていれば右疾患の診断が可能であり、かつ、病勢が急速に進行していることを認識することができたのに、同病院はこれを怠り右検査を行わなかった。
(2) 警友病院は、六月二四日に行った本件リンパ節生検術の肉眼的所見及び高熱が続き、リンパ節腫脹が増大し、LDH、GOT、GPTの各数値が異常に高くなるなど同月下旬における貴子の症状の経過に照らし、遅くとも七月一日までには、同女の疾患を悪性リンパ腫と確定的に診断することが可能であったのに、同病院はこれを怠り右診断をしなかった。
(3) 仮に、右(2)において確定診断ができなかったとしても、右同日までには同女の病状について悪性リンパ腫の疑いが濃厚であったのであるから、警友病院は、悪性リンパ腫の治療として同女に対し放射線療法、化学療法等を行うべきであったのにこれを怠り、右治療を行わなかった。
(二) 前記(一)の諸検査により速やかに診断がなされ、適切な治療がなされていれば、貴子の病状が寛解した可能性は否定できないし、たとえ予後が不良であったとしても、病勢の進行を遅らせ、同女の生命を、なお相当期間延長することは可能であったのである。
(三) 仮に、貴子の回復あるいは延命の可能性がなかったとしても、前記(一)の診断がなされていれば、警友病院は、同女ないし原告らに対して右診断の結果を告知できたのであり、また、右告知は本件診療契約上の被告の義務であるところ、同病院は同女の死亡に至るまで同女の生命の危険を認識せず、これを本人または家族に告知することができなかった。
5 損害
(一) 貴子の損害
(1) 逸失利益 一五八一万八二一一円
貴子は死亡当時満一九歳であり、満六七歳までの就労可能年数は四八年であるから、昭和五五年賃金センサス第一巻第一表による平均給与額にホフマン方式により生活費五割を控除して同人の逸失利益を計算すると右金額となる。
(1,311,300×24.126×(1-0.5)=15,818,211)
(2) 慰謝料 八〇〇万円
貴子は、病状回復のための有効適切な治療を受けられなかったばかりでなく、近日中に退院できるとの期待を抱かされたまま、全く突然に死を迎えたものであるから、その苦痛に対する慰謝料として右金額が相当である。
(二) 原告らの相続
原告らは、それぞれ二分の一ずつの割合で貴子の右損害賠償請求権を相続した。
(三) 弁護士費用 二三八万円
原告らは、原告ら訴訟代理人に対し、本訴請求額の一割を報酬として支払う旨約束した。
以上合計 二三八一万八二一〇円(一〇円未満切捨)
6 結語
よって、原告らはそれぞれ、被告に対し、債務不履行による損害賠償請求権に基づき一三〇九万九一〇五円及び内各一一九〇万九一〇五円に対する本訴状送達の日の翌日である昭和五六年一一月二六日から各支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実を認める。
2 同2について
同(一)のうち、貴子が健康であったことを否認し、その余の事実を認める。
同(二)のうち、貴子に慢性副鼻腔炎、肝障害、腎盂炎の既往歴があることを認め、その余は不知。
同(三)のうち、貴子の受診目的が肝機能検査のみであったこと及び第一次入院の目的が検査の便宜のみであったことを否認し、その余の事実を認める。警友病院が同女に入院を勧めたのは、通院中の検査の結果、同女には肝障害が疑われたので、その精密検査及び治療を行うためであった。
同(四)のうち、ルポイド肝炎疑の旨を貴子に告知しなかったことを否認し、その余の事実を概ね認める、但し、貴子を退院させたのは、同女に肝炎の自覚症状がなかったからだけでなく、諸検査の結果からもルポイド肝炎等の所見が得られなかったからである。
同(五)のうち入院の理由を否認し、その余の事実を概ね認める。入院の理由は、肝機能の異常と、血沈の亢進が認められたためである。
同(六)の事実のうち、貴子が外泊したことを認める。この間の貴子の症状については、五月一七日に判明した臨床化学検査結果によると、GOT、GPT及びLDHの各数値はいずれも正常値を超えるものであり、また、同月一九日から同月二二日にかけて、両顎下、右頸部、右耳下に圧痛を伴わないリンパ節腫脹が認められたが、右リンパ節腫脹は同月二七日以降は縮小し、六月初めには前記GOT等の肝機能データの改善、体温下降が認められ、本件肝生検術の結果も異常がなく、全身状態の安定が認められたので、警友病院は同女を退院させることとし、一時同女を外泊させた。しかし、同月一六日ころから再びリンパ節腫脹が再発して消退する傾向が見られず、また、発熱も続き、肝機能データも正常値を大幅に超えるようになったので、同病院では同月一六日から感染症対策として抗生物質の投与を行った。しかし、解熱が認められなかったので、慢性肝炎の急性増悪、ウイルス性肝炎または悪性疾患を疑い、同月一八日からプレドニン(ステロイドホルモン)の投与を開始した。
同(七)のうち、本件リンパ節生検術を行ったことは認め、その結果についての報告内容については否認する。警友病院は原告らに対し、貴子の臨床症状からみて悪性リンパ腫の疑いもあること、悪性リンパ腫であると判明した場合には直ちに抗癌剤の投与を開始することを説明した。
同(八)の前段のうち、排尿がなかったこと、貴子が呼吸困難を訴えたことを否認し、その余の事実を概ね認める。後段の事実を否認する。
3 同3については、一つの推定としてこれを認めるが、貴子の死因としては、右悪性リンパ腫に何らかのウイルス等による急性感染症が加わったことも考えられる。
4 同4についてはすべて争う。
(一)(1) 五月一六日に行った本件肝生検術は、貴子の当時の症状からすれば妥当な検査であったところ、同月二二日に判明した右結果によると、肝細胞は全体に腫脹していたが、限界膜の崩壊、配列の乱れ等はなく、核の空胞化や小円形細胞浸潤が認められる程度であったので、警友病院では慢性持続性肝炎と診断して引続き同女の全身症状と肝機能につき経過観察を行ったものである。しかも、その後リンパ線の腫脹は縮小しているし、肝機能データの改善、体温下降が認められたのであるから、この段階で、悪性リンパ腫の診断を下すことは不可能であった。
(2) 六月一六日以降の同女のリンパ節腫脹、発熱等の臨床症状、本件リンパ節生検術実施の際の肉眼的観察によれば、同女の疾患が悪性リンパ腫であることを疑わせるものであったが、七月一日に判明した右リンパ節生検術のリンパ標本の病理組織学的診断では、悪性リンパ腫を否定できないとしつつも、ウイルス性感染または薬剤反応の可能性を第一とするものであった。このように、七月一日の段階では、同女の疾患を悪性リンパ腫と確定的に診断することは不可能であった。
(3) 悪性リンパ腫第四期における治療法として放射線療法と化学療法が行われることは認める。しかしながら、貴子の場合のように全身性悪性リンパ腫の場合には放射線療法は採用されないのであり、また、化学療法(抗癌剤の投与)については副作用の危険が極めて高く、確定診断ができない段階において使用することはできない。したがって、警友病院の前記処置は妥当なものであった。
(二) 回顧的にみれば、貴子の悪性リンパ腫の病勢の悪化が顕在化したのは六月二二日以降であり、同女が死亡するまでの期間は極めて短く、また、本件リンパ節生検術の結果が判明した七月一日からは五日間しかなかったのであるから、仮に、被告が悪化リンパ腫の治療を行っていたとしても、同女の予後は全く不良であった。
5 同5のうち、原告らが原告ら訴訟代理人に訴訟追行を委任したことを認め、その余は不知ないし争う。
第三証拠《省略》
理由
一 請求原因1(当事者)については当事者間に争いがない。
二 同2(一)(貴子の経歴、但し、同女の健康状態を除く。)及び同(二)(同女の既往歴、但し、同女の溶蓮菌感染症の既往歴を除く。)については当事者間に争いがない。そして、《証拠省略》によれば、貴子は昭和五四年六月ころ近くの医院において溶蓮菌感染症の治療を受けていたことが認められる。
三 貴子の診療経過について
当事者間に争いがない事実に加え、《証拠省略》によれば以下の事実が認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
1 第一次入院に至るまで
昭和五五年二月一日、貴子が警友病院を受診し、被告との間で診療契約を締結したこと、右受診の際、同女が腹鳴、腹部不快感、頻尿、残尿感、排尿異常感、腰痛等を訴えたことは、当事者間に争いがない。
貴子は、同年初めころ同女が勤務する会社の定期検診で腎盂炎及び肝機能の精密検査を受けるように勧められ、同年二月一日警友病院を受診したところ、検査の結果では、腎盂炎については軽快していたが、軽度の肝障害が認められ、更に、同月二八日には、その直前に同女に発熱があったこと及びGOT、GPT(いずれも血清トランスアミナーゼ酵素値、正常値はいずれも三〇ないし四〇である。)、LDH(乳酸脱水素酵素値、正常値は三五〇までである。)の各数値が高かったことから、同病院としては肝障害あるいは膠原病疾患を疑い検査及び治療のため同女に入院を勧めた。
2 第一次入院(三月四日から四月七日まで)
(一) 昭和五五年三月四日から同年四月七日まで貴子が警友病院に入院したこと、右入院時貴子が自覚症状として倦怠感を訴えていたこと、警友病院の当初の診断が「ルポイド肝炎疑」であったこと、そして、同女は入院中時折倦怠感、息苦しさ、腹痛、不眠を訴えたほかは特に自覚症状がなかったこと、以上の事実は当事者間に争いがない。
(二) 警友病院の大関一郎医師(以下、「大関医師」という。)は、前記検査の結果から慢性肝炎ないしルポイド肝炎を疑った。しかし、入院時及び三月一一日の血液検査の結果では、LDH値こそ高かったものの、その他の肝機能障害の他覚的所見は認められず、また、同月八日には血液検査から膠原病の疑いも弱まった。なお、同月五日同女の左顎下に圧痛を伴わない小指頭大のリンパ節腫脹が認められたが、その後に右所見が見られなかったので大関医師は慢性副鼻腔炎の影響と判断した。
(三) 同月一八日に実施した血液検査では、GOT、GPT、LDHの各数値が上昇したので、出血傾向がなければ肝生検術の実施も考慮されたが、その後は右各数値が改善され、また、慢性副鼻腔炎以外の症状と思われるものも認められなかったため、四月七日同女は退院した。
3 第二次入院に至るまで
退院後貴子は四月二一日から出社していたが、同月二三日警友病院を受診した際の採血結果でGOT、GPT、LDHの各数値がいずれも上昇したため、五月七日大関医師は同女に再入院を勧めるとともに、肝生検術実施を予告した。
4 第二次入院から死亡に至るまで(五月一五日から七月六日まで)
(一) 貴子が五月一五日警友病院に再入院したこと、同女は、再入院に至る間の自覚症状として、時折全身的倦怠感、右側腹部痛があり寝汗をかくと訴えていたこと、そして、再入院時には下腹部不快感を訴えたことは、当事者間に争いがなく、右再入院の際、同女の両顎下に小指頭大の、左腋窩に小豆大の、それぞれ圧痛を伴わないリンパ節腫脹が認められたが、大関医師は特に問題とはしなかった。
(二) 五月一六日、警友病院が同女に対し、本件肝生検術を実施したことは当事者間に争いがなく、右同日及び五月二一日に実施した血液検査の結果では、GOT、GPT、LDHの各数値はそれぞれ五九から七五、六四から八七、六八一から七八三と上昇し、また、同女には同月二〇日ころから右頸部、右耳下、両顎下に圧痛を伴わないリンパ節腫脹が認められ、同女も、他に腋窩、鼠径部のリンパ節腫脹を訴えるようになった。更に、同月一七日から同月二六日にかけて三七度台の発熱も見られた。
(三) しかし、五月二二日に判明した本件肝生検術の病理組織検査の結果によれば、同女の病名は慢性持続性肝炎であり、また同月二七日ころからリンパ節腫脹は縮小し始め、発熱もなくなり、GOT、GPTの数値の改善も見られた(LDHの数値は高かった。)ため、大関医師は通院治療で十分と考え、同女の退院を予定し、六月七、八の両日同女を外泊させた(貴子が外泊したことは当事者間に争いがない。)。
(四) ところが、六月八、九日貴子が発熱したため、大関医師は同女の退院を見合せていたところ、同女には同月一三日から継続的に三八度から四〇度台の発熱が見られた。大関医師はウイルス感染の可能性を疑い、同一六日から抗生物質(セファメジン)の投与を開始した。
(五) 六月一六日ころから、同女にリンパ節腫脹が認められるようになり、同日には両顎下に、翌一七日には右耳下、右腋窩に、同月二〇日には左頸部、右鼠径部にと右腫脹は全身に拡大していった。
更に、六月一六日に採血した血液検査の結果、GOT、GPT、LDHの各数値が異常に高かったので(それぞれ、四八五、四六四、四八三九)、大関医師は、慢性肝炎の急性増悪、伝染性単核症を含むウイルス感染症または悪性リンパ腫を疑うに至った。そこで、同月一八日からは経過観察と解熱のために、抗生物質に代えてステロイド副腎皮質ホルモン(プレドニン)の投与を開始した。
(六) プレドニンの投与量を減らした六月二二日から再び発熱(右状態は貴子の死亡時まで断続的に続いた。)が見られ、また、リンパ節腫脹も継続していたので、大関医師はリンパ節生検術により病名の鑑別診断をすることにした。
六月二四日、本件リンパ節生検術(右鼠径部)が実施されたことは当事者間に争いがなく、その際の肉眼的所見では正常のリンパ節はほとんど消失しており、大関医師は悪性リンパ腫の疑いを強めた。
(七) その後、貴子の発熱状態は続き、リンパ節腫脹は増大していたところ、七月一日、本件リンパ節生検術の病理組織検査結果が報告され、右によれば、ウイルス感染症か薬剤反応の可能性が第一に考えられるが、混合型悪性リンパ腫の可能性も否定できないとのことであった。
大関医師は、悪性リンパ腫との確定診断に至らなかったため、抗癌剤の使用を差し控え、引続きプレドニンの投与により経過を観察することにした。
(八) 七月四日ころから、貴子に鼻出血が見られ、翌五日から下痢が始まり、タール便があったことは当事者間に争いがなく、同月六日早朝には収縮期血圧が八〇、脈拍数が毎分一二八となり、冷汗、四肢冷感が認められた。この頃から同女は息苦しさを訴え始めたので酸素吸入が実施された。同女は、同日午後三時五〇分ころ呼吸困難を訴えたが、五分後には容体が急に悪化し死亡するに至った(同女が同日同時刻ころ死亡したことは当事者間に争いがない。)。
四 貴子の原疾患及び死因について
1 貴子が昭和五五年二月一日警友病院を受診する以前から非ホジキン瀰漫性混合型悪性リンパ腫に罹患していたこと及び同女の直接死因が右悪性リンパ腫末期の多臓器障害症候群の急性増悪であることについては、一つの推定として当事者間に争いがなく、また、鑑定の結果も右と同旨である。
ところで、《証拠省略》によれば、悪性リンパ腫とはリンパ節に原発する免疫組織の悪性増殖性疾患(ないしリンパ球系細胞の腫瘍増殖による一群の疾患)の総称であり、その分類については諸見解があるが、一応ホジキン病と非ホジキンリンパ腫とに大別され、後者については結節性(濾胞性)と瀰漫性とに中別できる(ラパポートの分類)こと、臨床症状としてはリンパ節腫脹(初期には無痛性が多い。)、発熱、倦怠感、発汗等を伴い、諸臓器への侵襲も見られること、血液検査所見では血沈の亢進がしばしば見られること、病理組織的所見では腫瘍(奇形)細胞の増殖とそれによるリンパ系組織の既存構造の破壊が見られること、右腫瘍細胞については小細胞型から大細胞型その他種々のものが見られ、一般には均一ないし類似の細胞が増殖していることが多いが、様々なサイズの細胞が混在している場合もあることが認められる。
他方、《証拠省略》によれば、貴子の右鼠径部のリンパ節については六月二四日当時、リンパ節の基本構築は失われ、様々なサイズの異型リンパ球系細胞の増殖(大型異型細胞は比較的少数で、中、小の核型不整細胞が混在し、形質細胞がかなり混在している。)が見られたことが認められ、また、同女には前記三で認定したとおりリンパ節の腫脹(当初は圧痛なし)、発熱、肝障害等の臨床所見が見られたのであり、以上の事実並びに同女の病状が急激に悪化して死に至った経緯に鑑みると、同女の原疾患及び死因は、鑑定の結果のとおり、非ホジキン瀰漫性混合型悪性リンパ腫であったと推定するのが相当である。
被告は、右疾患と何らかのウイルス等による急性感染症疾患との合併症の可能性を主張するけれども、本件証拠上感染症の原因を認めることはできないし、前記三のとおり、感染症に対する治療でもあるステロイド副腎皮質ホルモン(プレドニン)の投与によっても、同女の症状の改善は見られなかったことに鑑みると右可能性を考慮することはできない。
2 次に、右疾患の病期については、前記認定のとおり、警友病院受診以前から貴子には肝障害が見られ、また二月二一日のGOT、GPT、LDHの各数値が高かったのであるが、右は、既に悪性リンパ腫の肝への瀰漫性浸潤を窺わせるものであり、《証拠省略》により認められるAnn Arborの病期分類に照らせば、鑑定の結果にあるとおり、同女の病態は同病院受診時既に、肝への瀰漫性浸潤を伴う悪性リンパ腫の第四期であったと推定することができる。
五 被告の責任について
1 五月一七日以降の検査義務(請求原因4(一)(1))について
(一) 前記三で認定したとおり、貴子については第一次入院時からGOT、GPT、LDHの各数値が高い時期があって肝障害が見られ、また、第二次入院の契機も右肝障害にあったのであるから、大関医師が五月一六日まず本件肝生検術を実施したことは妥当であったというべきである。
(二) 《証拠省略》を総合すれば、右肝生検術の病理組織検査結果では、肝細胞が全体的にやや腫大してはいるものの、限界膜の崩壊、配列の乱れはなかったことが認められる。したがって、右検査結果中にはグリソン鞘内に小円型細胞の浸潤及び小葉間に小円型細胞の瀰漫性浸潤が見られ、右が悪性リンパ腫の浸潤であった可能性があるにしても、右検査結果から直ちに悪性リンパ腫の診断を下すことは困難であり、同女の疾患を慢性持続性肝炎と診断したことについて過誤があるということはできない。
(三) 前記三で認定したとおり、本件肝生検術の翌日から貴子には右頸部等にリンパ節の腫脹が見られ、また、GOT、GPT、LDHの各数値の上昇及び発熱もあったのであるから、この時期に悪性リンパ腫の可能性を疑い得るといえないではないが、従来からの肝障害の鑑別のために本件肝生検術を実施した直後でもあり、大関医師としてはまずその結果をみてこれを検討すべきであったこと、また、右結果が前記のとおり慢性持続性肝炎との診断であったこと、その後まもなくリンパ節腫脹の縮小、GOT、GPT、LDHの各数値の改善、解熱によってひとまず同女の症状が軽快したことを考慮すれば、この時期に警友病院が悪性リンパ腫あるいはその他のリンパ節疾患を疑い、複数部位のリンパ節生検術を始め悪性リンパ腫鑑別のための諸検査を実施すべきであったということはできない。
よって、請求原因4(一)(1)の検査義務を認めることはできない。
2 七月一日までの診断義務(請求原因4(一)(2))について
(一) 前記三のとおり、貴子の肝機能障害を示す兆候は一旦消失したが、六月八、九日及び一三日以降にかなり高い発熱があり、更に同月一六日から次第にリンパ節の腫脹が現われ、また、GOT、GPT、LDHの各数値の異常な上昇が見られたため、大関医師は初めて悪性リンパ腫を疑ったところ、《証拠省略》によれば、悪性リンパ腫の場合にはリンパ節生検術を実施し、その病理組織検査を行わない限りその鑑別は困難であることが認められ、また、《証拠省略》によれば、同女の場合には全身にリンパ節の腫脹が見られたのであるから一か所だけのリンパ節生検術でも結果において大差はなく、その部位を右鼠径部としたことも不適切とはいえないことが認められる。したがって、六月二四日なされた本件リンパ節生検術の実施時期及び方法に過誤があったということはできない。
(二) 《証拠省略》によれば、右リンパ節生検術のほかに一般血液検査、腹部CT撮影、胸部断層撮影、骨髄・骨・腫瘍のシンチカメラ撮影等の臨床検査の余地はあったものと窺われるが、後記のとおり、悪性リンパ腫の場合には病理組織による鑑別が最も重要であったから右鑑別結果を待つことは妥当であり、また、前記のとおり、その結果が臨床所見と異なり、ウイルス感染症か薬剤反応の可能性が第一に考えられるとされていたのであるから、右臨床検査が実施されたとしても、どれだけその結果を考慮できたかは甚だ疑問である。したがって、前記臨床検査を実施しなかったことについても過誤があるということはできない。
(三)《証拠省略》(リンパ節生検術の病理組織検査申告書)の内容は前記四で認定したとおりであり、貴子の死因等から予後的に判断すれば、七月一日本件リンパ節生検術の病理組織検査申告書が提出された際、右申告書の内容のうちリンパ節の基本構築の崩壊を重視して悪性リンパ腫と診断することは不可能ではなかったともいえる。
ところで、<証拠略>を総合すれば、悪性リンパ腫の分類は従来からその病理組織によって行われてきたところ、右方法については昭和五五年当時様々な見解があったこと、また、当時はリンパ組織、リンパ球についての研究が発展しつつある時期であり、それに伴なって更に新たな悪性リンパ腫の分類方法が提唱されていたこと(日本固有の分類方法についての研究もなされている。)が認められ、右事実によると、悪性リンパ腫の病理診断法が昭和五五年当時確立していたものとはいえず、したがって、一般に病理診断からの鑑別は困難を伴うものであったということができる。更に、貴子のリンパ組織については前記四で認定したとおりリンパ節の基本構築が崩壊していたとはいえ、かかる所見だけから直ちに他の疾患との鑑別ができるわけではなく、また、同女のリンパ節の増殖細胞が均一ないし類似のもの(この場合の鑑別は比較的容易と思われる。)ではなく、様々なサイズの細胞が混在するものであったから、その診断は極めて困難であったものと推認でき、事実、《証拠省略》によれば、病理学の専門医が本件事故の後である昭和五七年ころ本件リンパ節生検術の検体を診断しても悪性リンパ腫との診断に至らない場合が多かったことが認められる。したがって、警友病院において貴子の疾患を悪性リンパ腫と診断しえなかったことは当時の診断技術水準からすればやむを得ないものといわざるを得ない。
よって、請求原因4(一)(2)の診断義務を認めることはできない。
3 七月一日以降の治療義務(請求原因4(一)(3))について
(一) 悪性リンパ腫の治療方法としては放射線療法と化学療法とがあることについては当事者間に争いがなく、右事実と、《証拠省略》によれば、前記四のとおり貴子の病期は悪性リンパ腫の第四期であったところ、放射線療法はその第一、二期において有効ではあるが、第三期以降における効果はあまり望めないこと、また、前記三のとおり同女のリンパ節腫脹は全身に及んでいたところ、放射線の全身照射は骨髄機能低下による造血障害の副作用が見られるので使用には十分の注意が必要であること、化学療法については、CHOP療法(サイクロファスファマイド、ハイドロキシルダウノマイシン、オンコビン及びプレドニソロンの併用)が一般的であるが、昭和五五年当時は、右ハイドロキシルダウノマイシンに代えてプロカルバジン、プレオマイシン、ビンブラシチンなどを併用することが多かったこと、右療法では、骨髄抑制作用、胃腸障害、肝機能障害、神経症状、心筋障害、肺繊維症、即時型アレルギー等の副作用があり、当該副作用による死亡の可能性もありうるのでその施用には慎重を要すること、の各事実が認められる。
(二) 貴子の疾患については前記のとおり臨床所見と病理組織所見とが一致せず、その確定診断ができなかったのであるから、右(一)で認定した放射線療法及び化学療法の効果、副作用を考慮すると、その時期に悪性リンパ腫を前提とした放射線療法あるいは化学療法を開始しなかったこともやむを得ないというべきである。
なお、仮に、警友病院において貴子の疾患につき、悪性リンパ腫との確定診断ができたとしても、右病態は第四期の段階であったことは前記認定のとおりであるから、右によれば、右各療法を施用しえたか、また、その効果が期待できたかも甚だ疑問であったというべきである。よって、請求原因4(一)(3)も理由がない。
4 告知義務(請求原因4(三))について
前記1、2のとおり、貴子の疾患について確定診断ができなかったことはやむを得なかったものというべきであるから、右診断を前提とする告知義務はそもそも生じないというべきであり、原告の主張は理由がない。
六 以上の次第で、原告らの本訴請求は、その余を判断するまでもなく、いずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 蘒原孟 裁判官 樋口直)
裁判官小西義博は、転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 蘒原孟)